男の引き際・・・

先日のボクシング、亀田興毅氏の試合について。

私の率直な気持ち、意見を書かせてもらいます。

読んでて不快に思われた方はすぐに閉じて下さい(笑)

 

1日限りの現役復帰。

ASKAのブログでも度々取り上げていたので、

日頃ボクシングを観ない沢山の方も注目していたと思います。

対戦相手は8年前にプロ初黒星を食らって

いろんな意味で亀田家の運命を狂わせたポンサクレック

 

ポンサクレックの年齢が40歳ということで出場資格が認められず、

公式戦でなくスパーリング形式での対戦。

ASKAが太鼓判を押す様に序盤から亀田興毅氏の動きがいい。

身体のキレがいいのはすぐにわかります。

対するポンサクレックにはキレがない、覇気がない。

2回に亀田興毅氏の左ストレートが入りTKO。

ポンサクレックも相手を褒め称えセレモニー終了かと。

ここでよもやの引退撤回宣言。

 

「まだやれる!」

そう自身も思ったのでしょう。

ローマン・ゴンザレスに挑戦するのも一つの生き方。

それを周りがどうこう言う事ではない。

ブランクがあるにもかかわらずあそこまで体を仕上げてきた事は、

並大抵の努力、忍耐では出来ないこと。

ボクシングにかける思いがそうさせたのでしょう。

 

と、ここで私の持論を。

先ず今回の対戦、亀田興毅氏にとっては大変意義のある対戦。

一方、ポンサクレックにとってはどんな意味があるのでしょうか。

本国タイで現役復帰をしているとはいえ40歳。

しかもタイトルがかかっていない試合。

ポンサクレックには闘う大義がないのです。

うがった見方をすればセレモニーに出演して怪我をする前にダウンし、

引き立て役となりお金を受け取り帰国。

 

セレモニーとして見れば男の花道を飾ったと。

しかし、プロボクサー同士のプロのボクシングとして見れば茶番。

皆さんはどう見、感じたのでしょうか?

 

ASKAがブログで必ず勝ちますと言ってましたが、

もう約束されていたことと思って観ていました。

「逆インタビュー」で出会い意気投合して、

亀田興毅氏を「言葉も丁寧で礼儀を知った男」と。

30過ぎの男なのでそれが当たり前ですよね。

出来てない男もいますが(笑)出来ているのが普通。

そもそも幼少の頃から父親がトレーナーとして厳しく指導、

父親の言うことを聞くいい子です。

基本はもちろん体に叩き込まれています。

ASKAが技術的なことを誉めていましたが、当然なことです。

 

私にはマスメディアに翻弄された境遇にASKAが自分を重ね、

手を差し伸べたように感じているのですが。

 

別に亀田興毅氏が嫌いなわけではないですよ。

今まで辰吉や竹原、畑山を応援して来ました。

彼らには漢としての魅力がありました。

私にはそれが亀田興毅氏には感じられない。

だからマスメディアの報道、バッシングを差し引いても

好きでも嫌いでもない存在。

ASKAがそう言うから応援しようという方もいるでしょう。

私は私の価値観で生きてるのでASKAASKA

 

亀田興毅氏は父親の影響下から外れた今、

ホントの意味で真価を問われる時期が来ているのだと思います。

思いが残ってるなら外野が何を言おうとやり通せばいい。

往生際が悪かろうともそれが己の道なら。

己を飾らず、本当の意味で漢として闘いに臨むとき、

きっと私も応援しているでしょう。

~Forever Ayrton Senna~

24年前の1994年5月1日、一人の天才が天に召されました。

F1ドライバーでブラジルの英雄、アイルトン・セナ

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親交のあった松任谷由実さんがセナに捧げた『Good-bye friend』。

一部を変更して『Hello My Friend』がアルバムに収められました。

 


Hello, my friend~Forever Ayrton Senna~

 

貴方の最後まで諦めない姿は私に勇気と感動を与えてくれました。

貴方は今でも私の中で生き続けてます。

 

勇気と感動をありがとう!

いつまでも忘れない、私の永遠のHERO!

 

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初孫の記憶。

父の見舞いに家族4人で行って来ました。

5日前に妻と二人で見舞いに行っていたのですが、

その時は原因不明の熱でうなされてました。

もしかすると孫の顔を認識出来るのは最期かもと。

原因不明の熱はその後の検査で肺炎になりかけていたと判明。

入院時にはなかった膵臓の膵管にも異常が。

後手後手の病院の対応に不信感を持ちつつも、

ここに頼らざるを得ない状況なのです。

 

五日前よりは少しは楽なようで、呼びかけに笑顔も。

孫の顔を見て顔をほころばせていました。

良かった!

顔も名前もわかるようです。

ただ明日、今日のことを憶えているかはわかりません。

 

 

長男は中学に入った頃から、私の実家に行きたがりませんでした。

思春期で親について行くこと自体少なくなりましたし、

私の仕事の都合上、盆も正月もなかなか休みがとれなかった。

父は以前書いたように一時期教師でしたので、

話が説教くさくてカタい。

思春期の長男にはそれが疎ましい。

私も思春期にそう感じていたので痛いほどわかります。

しかし、今は父の思いもわかります。

 

 

私の長男は父と母にとって初孫でした。

60代前半だった父は母を車に乗せて毎週のように孫の顔を見に来ました。

片道60kmの道のりを2時間かけて。

カメラが好きだった父は沢山の写真を撮ってました。

 

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特別養護老人ホームの園長を務め、

老い認知症の方々と向き合いながら人生の終焉に立ち会う中、

初孫の顔を見るのが生きがいだったのかもしれません。

 

実家の本棚の上に色褪せた家族全員集合の写真が数枚飾られていました。

 

もっと早く孫たちを連れて行けばよかった・・・

 

悔やんでも悔やんでも悔やみきれません・・・

 

気付けなかった自分に腹が立って仕方がない!

 

 

遺書も読んできました。

妻に対する感謝、好きなように生きさせてくれたことへの感謝。

子供たちへの感謝、子育てをさせてくれたことに感謝。

涙が溢れました。

 

 

気付くのが遅かった・・・

もっと早く親の老いに目を向けるべきだった。

今更ですが、これから何が出来るか考えていかねばならない。

しかも待ったなしで。 

残された時間、記憶があるうちに楽しい思いをさせたい。

 

長崎旅行記、番外編

これから話すことは決して嘘ではありません。

しかし、ホントとも言えない・・・

まさに夢として読んで頂けると幸いです。

 

ホテルで就寝中のことです。

夢の中で私は両腕を抱えられ引き立てられました。

「今からお前を処刑する。」

「えっ?なんで私が?」

「問答無用!」

「なぜ?なぜ?」

・・・

はっと目が覚めました。

周りは真っ暗ですが間違いなくホテルの一室。

「なんだ夢か。怖い夢を見たな。」

そう思いながらも歩き回った疲れからかすぐに深い眠りに。

 

翌朝目覚めてあの夢のことを思い出しました。

といってもどんなシチュエーションだったか思い出せません。

朝食の時間となり、夢のことは頭の片隅に追いやられました。

 

朝食が終わり、出立の用意を済ませ、

今日周るルートの再確認のため観光マップを見ていると・・・

一瞬戦慄が走りました。

 

このホテルのある丘を下ったところの地名が西坂。

 

豊臣政権の禁教令のため1597年に

外国人宣教師6名と日本人のキリシタン20名、

計26名が処刑された地だったのです。

丘のすぐ下に『日本二十六聖人殉教碑』があります。

 

思い出しました。

40年ぐらい前に小学校の修学旅行で訪れ、

説明を聞き深く印象に残っていました。

処刑された日本人の中には12~14才の子供3名も含まれてます。

同じ年頃の子がここで磔の刑で・・・

当時の私は大変なショックを受けたことを憶えてます。

きっとその心の奥深くに刻みこまれた記憶が

あのような形で蘇ったのでしょう。

観光マップで無意識に見て脳裏で反応したのだと思います。

 

変に捉えられるとせっかくの旅行が台無しになるので、

カミさんと子供たちには黙っておきます。

 

 

大浦天主堂

1865年に建造されたキリスト教会。

西坂を向いています。

 

1597年の処刑はヨーロッパに伝えられ、

ローマ教皇が26名の殉教者を「日本二十六聖人」と称しました。

幕末に開国されるとキリスト教の神父たちが土地を入手し、

二十六名の殉教者に捧げるために教会を建築しました。

それが大浦天主堂なのです。

 

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家族がグラバー園に向かって重い足を引きずる後ろで

そっと手を合わせてきました。

 

 

いろんな顔を持つ長崎。

鎖国の中、出島を通して西洋の物や文化が長崎に集まりました。

時に武器が取引され明治維新にも大きく影響を与えた街、長崎。

その反面で、

1945年8月9日に広島に次いで原爆が投下されました。

私の長崎出身の同僚は被爆二世です。

明るい歴史と暗い歴史を併せ持つ街。

日本は今一度、歴史を見直すべき時なのかもしれません。

 

もう一度、じっくり周りたい街ですね。

 

次は路面電車で(笑)

長崎旅行記、完結?

父の手術の日に同僚の父親が亡くなりました。

末期癌で、手の施しようがない状態だったとのこと。

老い、病、怪我・・・いろいろと考えさせられる春となりました。

そうですね、目を背けては生きていけない。

出来れば考えたくはないが必ず訪れる。

それはいつ訪れるかわからない。

だからこそ一瞬一瞬を大切に生きなきゃならない。

同僚も今日から職場に復帰。

心の整理がついたのか、一時でも忘れようとしてるのか。

張り切って頑張ってます。

静かに見守っていきたいと思います。

 

・・・で、

 

連載中(?)だった長崎旅行の続きを・・・

 

中華街で食事をとったとこまででしたね。

食事の後、散策しながらグラバー園を目指します。

途中にオランダ坂があるのですが、

上り坂なのを見てカミさんが一言「スルー!」

坂の上にある活水女子大学の学生さんが昇ってるので

後をついて行きたかったのですが・・・可愛かったのに・・・

気温も上がり、冷たいものでもと喫茶店へ。

カフェインレスのアイスコーヒーで至福のひと時を。

休憩後、また歩きです。

歩きに歩いてようやく到着。

着いたはいいがまた坂・・・

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お土産屋さんを横目に昇っていくと、

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正面に大浦天主堂

大浦天主堂とは幕末の1865年に建造された、

現存する日本最古のキリスト教建築物です。

この教会については後ほど・・・

 

この大浦天主堂に隣接してグラバー園があります。

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また坂です。

これを昇りきったところに入園口があるのですが、

庭園内の案内図を見てカミさんが「ギブッ!」

グラバー園とは幕末から明治期にかけて長崎に在住したイギリス商人の

グラバー、リンガー、オルトの旧邸の周りに

市内にあった洋館を移築復元したものです。

トーマス・グラバー

イギリスの商人で長崎の造船業の礎を築いたとも言われています。

国産ビールの育ての親とも。

武器商人として亀山社中とも取引しています。

坂本龍馬もこのグラバー邸を訪れ交渉しています。

幕末の動乱期に討幕派に最新式の武器弾薬を与え、

維新の陰の立役者となりました。

薩長同盟にも深く関与しています。

明治日本の近代化にも大きく貢献しています。

 

広い綺麗な庭園の中に洋館が点在していて

私としてはゆっくり見て回りたかったのですが、

「もういや、歩きたくない!ここから動かん!」げな。

しばらくここで休憩。

私は長崎港を見渡せるところに行き、

珍しいものを発見!

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海上自衛隊イージス艦です。

通常は佐世保港にあるらしいのですが、この日は長崎港にありました。

番号から護衛艦「こんごう」のようですね。

もう一隻は番号がはっきりとはわかりません。

 

一息ついたところで、

土産屋でカステラと職場へのお土産を買って帰路につきます。

坂の下に路面電車があり、それに乗って車を停めてある長崎市民会館へ。

実は路面電車で観光各所を巡っていけるのです。

しかも1日乗車券を使えばお得に。

カミさんは「最初っから乗ればよかったーっ!」と叫んでますが、

それでは意味が無いのです。

今回の旅の副題は『龍馬の歩いた道を歩く』ですから・・・

 

一人ブラブラしてた長男と合流、愛車で長崎を後にしました。

 

 

大浦天主堂についてはまた後ほど・・・

 

父の老い・・・

更新が遅れてしまいました。

この間に私の父が転倒していしまい大腿骨頸部骨折をしまして、

手術をしました。

 

手術前に担当医から説明がありまして、

高齢であること、腹部に動脈瘤があることで危険が伴うと。

「もし心臓が止まった場合はどうしますか?」

「ど、どうするって?」

「延命処置を行いますか?」

「延命処置をすれば助かるのですか?」

「そうなるということは心臓がそれだけ弱ってるということですから、

現状回復は難しい。助かっても寝たきりで人工呼吸器装着となる可能性が高い。」

 

実は数か月前、母が父の本を整理していたら遺書が見つかって、

5年ぐらい前に書かれたもので認知症が少し出てきたころと重なります。

「もしもの場合は延命治療をするな。」と書かれてました。

家族で話し合い、父の意思を尊重して延命処置はしないことに。

手術中は皆祈る思いでした。

折れた骨頭を人工の骨頭に換える『人工骨頭置換術』という方法です。

3時間近くかかった手術は無事成功。

手術後の父に集中治療室で面会しました。

麻酔で意識が朦朧としながらも

「頑張ったね。」の声にわずかに微笑みました。

 

しばらくは合併症を引き起こさないよう集中治療室で、

その後様子を見て一般病棟へ移るとのこと。

そしてその後は辛いリハビリが待っています。

 

私の父は40代後半まで中学の教師でした。

その地域では名の知れた荒れた中学でして、

一緒に夕飯を食べた記憶があまりないのです。

帰宅は遅く、休みの日は部活の顧問。

生徒補導の知らせで夜に出ていくのは日常茶飯事でした。

金八先生を地で行くような先生だったようですが、

テレビで「金八先生」を見ていると必ず「こんな単純なものではない・・・」と。

そんな中、一緒に駆けずり回っていた同僚の方が心労から自殺。

心身をすり減らした父も胃潰瘍から体を壊し退職。

その後特別養護老人ホームの職員となり副園長、園長と務めてきました。

老いとは、認知症とはどういうものか。

職場で向き合ってきた父。

趣味は登山でしたが胃ガンを患い

胃の3分の2を摘出してからは体力が無くなり、

山に登ることは出来なくなりました。

老人ホームの園長を退職してからは急に老けこもりました。

大好きなはずの本も読まなくなり、好きな車も運転しなくなり・・・

全てのことに興味を失いました。

認知症になるリスクがあるから医師に相談しようと話しても

認知症の診断内容を知ってるので頑なに拒み続けます。

出来るだけ刺激を与えようと一緒に旅行したり、

本を贈ったりしていたのですが認知症の進行を止めることは出来ませんでした。

かつての教え子さん達がよく遊びに来てたのですが、

会話が思うように出来なくなった父を見て涙ぐんで帰っていったそうです。

 

あの厳格だった父が・・・

いろんな想いが込み上げてきて頭が整理できずにいます。

しかし、幸いなことに父は生きている。

これから出来うる限り寄り添いながら

楽しい時間を少しでも長く感じていられるようしていこう。

 

長崎旅行記、そのさん!

朝7時に目を覚まし、朝食会場である大広間に。

こんなに泊まってたの?ってくらい大勢の人だかり。

バイキング形式で和・洋・中いろんなメニューがあります。

新鮮な野菜のサラダバー、ヨーグルトやフルーツジュースも。

朝から満腹でしばし部屋で休憩。

今日の長崎は昨日に引き続き天気が良いとのこと。

しかしpm2.5が多いと。

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たしかに霞んでますね。

本日の観光予定地のルートを確認して10時にチェックアウト。

『にっしょうかん新館 梅松鶴』さん、お世話になりました。

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まずは市の中心にある長崎市民会館の地下に駐車。

ここから歩いて名所を巡ります。

と、ここで長男が「ひとりでブラつきたい。」と。

マメに連絡を取り合うことを条件にリリース(笑)。

妻と娘と3人でまずは近くにある『眼鏡橋』へ。

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1634年に建造されたこの橋は日本初のアーチ式石橋です。

川面に映った影が双円を描き眼鏡に見えることから名付けられたそうです。

1982年の「長崎大水害」で半壊しましたが修復され、

国の重要文化財に指定されてます。

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ここから更に歩いていきます。じわじわと上り坂になってきました。

目指したのは日本最古の中国様式の寺院『崇福寺』。

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この「三門」を含む重要文化財、国宝が中にあるのですが、

昨日からの疲れがカミさんの足を重くし、泣く泣く後にします。

ここからさらに歩きます。

両脇にいろんなお店があり、立ち止まって中を覗いたり・・・

時折足を休めながら海の方角へ。

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出島が見えてきました。

『出島』とは1634年、江戸幕府が外国人流入防止政策の一環として

長崎に造られた人工島です。

当初はポルトガル、その後オランダとの唯一の貿易拠点でした。

鎖国を進める江戸幕府により、日本は世界との繋がりは出島だけでした。

主に生糸、砂糖、薬等を輸入、銀や銅を輸出しました。

出島からいろんな西洋文化が日本に入ってきました。

西洋医学もそうですね。

自由平等という思想は当時の日本にはないもので、

この思想が日本に広まり幕末に大きく影響を与えたともいわれます。

ペリーの来航により1856年に幕府から出島開放令が出され、

3年後の1859年に閉鎖、出島としての役目を終えました。

明治時代に護岸工事、埋め立て工事で内陸化しています。

昭和に入り復元工事が始まり今日に至ります。

 

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桜(和)とチューリップ(洋)が仲良く咲いていました。

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復元模型の前で。

 

この後楽しみにしていた、近くにある新地中華街での食事です。

 

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会社の長崎出身の同僚がお薦めする『江山楼』を探します。

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見つけました。

店内にも待ちの行列がありましたが、思いのほか早く案内されました。

同僚お薦めの長崎ちゃんぽんと長崎皿うどんをオーダー。

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福岡では豚骨ベースが一般的ですが、こちらは違いますね。

こってり系で深い味わいです。

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パリパリ麺の皿うどんは絶品でした。

家族でシェアして頂きました。

美味しいお茶で一息つきたいところですが、お皿を早々と片付けられ・・・

行列が出来てるのでしょうがないですね、会計を済ませて店外へ。

中華街をブラブラした後、次の観光地へ向かいますが

つづきはまた後で・・・

 

つづく・・・きっと