映画『関ヶ原』を観て・・・
映画『関ヶ原』観て来ました。
夕方に仕事を終え、博多駅へ。
博多駅は久しぶり、という程ではないのですが
相変わらず迷子状態・・・
映画の前に腹ごしらえを。
博多駅地下にある『たんや』で牛タン麦とろろ定食を。
牛タンが柔らかく美味しい!
そして映画館へ。
岡田准一がどんな三成を演じるのか、それが1番の楽しみでした。
2時間半の上映が終わって・・・
満足度60%といったところでしょうか・・・
確かに岡田准一はいい俳優になってます。
映画『永遠の0』で素晴らしい演技をしました。
この映画でも魅力たっぷりです。
ですが、私の思い描いてる石田三成像とはどこか一致しない。
新しい三成像とも言えなくもないがどこか中途半端。
相対する家康の役所広司が素晴らしかっただけに中途半端さが際立つ。
迫力の演技でしたが、いかんせん若い。
関ヶ原の合戦時は島左近60才代。にじみ出る貫禄が必要なのです。
家康の参謀、本多正信もさらっとしか描かれていません。
この映画は三成、家康、島左近、そして小早川秀秋をメインに据えてます。
司馬遼太郎の原作を基にしながらも新しい視点で関ヶ原を描いています。
原作、および1981年にテレビで放映された『関ヶ原』と同じと思って観ると
期待を裏切られるかもしれません。
ただ、エキストラ総勢3000人にのぼる合戦シーンは凄い迫力です。
エンターテインメントとしては一級だと感じました。
そもそも司馬遼太郎の超大作を2時間半で描き切るのは不可能ですからね。
焦点を絞って、しかも新たな視点で描いた『関ヶ原』。
これはこれで楽しめる作品になっていると思います。
ただ、エンディングには不満が残ります。
最後は原作やテレビ版と同じように数年後の初芽を描いて欲しかった。
高校時代に初めて読んで、今年で3回目。
1981年に放映されたテレビ版『関ヶ原』も36年ぶりに観ることが出来ました。
1600年9月15日(旧暦)に発生した天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」。
戦国史上最大の合戦はわずか6時間で決着したとのこと。
傍観、裏切りが勝負の行方を左右した。
その決戦の前に考えうる限りの謀略を尽くした家康。
己の義を強く信じ、人は義で動くと信じて疑わなかった三成。
対局でありながらどちらも魅力的な人物像です。
もうすぐ9月15日。
417年前の出来事に思いを巡らせる秋を過ごそうと思います。
余談ですが、
西軍(三成側)について積極的に戦わなかった毛利家と島津家。
徳川幕府の江戸時代、どちらも改易は逃れましたが大幅な減俸で、
仮想敵国として睨まれ苦しい時代を過ごします。
同じく西側について参戦した長曾我部家は改易となり、
その多くの家来は新たに土佐の国に移封となった山内家の下級武士となり、
山内家の武士からは蔑まされました。
そして幕末。
長州藩(山口県ー毛利家)、薩摩藩(鹿児島県ー島津家)が中心となり、
その後の日本の政治はこの両国が大きく関わってきます。
そういえば、今の首相も山口県出身ですね。
F-1がマイブーム・・・
シフト勤務で眠い目をこすりながらコツコツと進めていました。
誰もが知ってる・・・はずの深紅のフェラーリ。
1989年のF-1マシン、「フェラーリF189 後期型」。「フェラーリ640」とも言います。
エンジンはフェラーリ伝統の12気筒。
独特のエンジン音で好きなんです。
ドライバーはナイジェル・マンセルとゲルハルト・ベルガー。
この年は16戦中、マンセルが2勝、ベルガーが1勝。
注目を集めたセミオートマチック・トランスミッションのトラブルで、
リタイアが続きました。
しかしその後の、いち時代を築く先駆的なマシンでした。
ドライバーは大好きなナイジェル・マンセル。
この頃のF-1マシンはシンプルでした。
もちろん、いいマシンとそうでないマシンの差はありました。
しかし、それでもドライバーのハンドリングで多くの見せ場を作ってくれました。
この年のハンガリーGPでは予選12位のマンセルが怒涛の追い上げで、
トップを走るセナをかわし優勝。
ポルトガルGPではマンセルがピットストップのさいにオーバーラン。
禁止されてるバックギアを使い、周回中に黒旗失格が。
しかし黒旗を無視して周回を続けるマンセルはあろうことか
トップを走るセナのマシンに接触してリタイアに追い込む。
当時は良くも悪くもドライバー同士がドラマを生み出していた。
今のF-1はマシンや組織が複雑になり、
ドライバー同士の駆け引き、ドラマが見えにくいように思えます。
それでも今年のハンガリーGPでは久しぶりにドラマを見た気がしました。
フェラーリが1-2フィニッシュを飾ったことも嬉しい。
苦戦続きだったホンダエンジンのマクラーレンも6位入賞。
これからに期待が持てる結果でした。
F-1が観たいがために有料放送に加入したのですから、
ドライバー同士の熱きバトルを見せて頂きたい。
これは1991年のイギリスGPでのヒトコマ。
優勝したマンセル(この時はフェラーリではなくウィリアムズ)が
最終周にガス欠で止まったセナを乗せてウィニング・ランをする様子です。
決して仲の良い間柄ではなかったようですが、
お互いをリスペクトし合っていた。
命を懸けて走っているわけですから、
信頼がないと怖くて走れませんよね。
この二人は1992年のモナコGPでF-1の歴史に残る名バトルを繰り広げます。
当時は日曜の夜中に生中継でした。
次の日に仕事があるのに手に汗握り画面に見入っていました。
観終わったあとも興奮して眠れなかったのを憶えてます。
また手に汗握るバトルを観たいものです。
健康診断で脱水症状?
一昨日、会社の健康診断がありました。
メーンイベントの胃のレントゲン検査。
バリウムを飲んで臨むのですが、
前日の21時以降は飲む食べるは禁止です。
検査終了後に渡された500mlの水のペットボトルを飲み干し、
通常の業務へ。
シフトの時間帯によって若干の仕事内容の比重が異なるのですが、
この日は蒸し暑い室内で体を使う仕事がメイン。
汗だくだくになるのですが、休憩で麦茶を一杯飲んで復帰。
夜帰る頃にちょっとフラフラするも気を引き締めて車で帰宅。
シャワーを浴びた後急にめまいが・・・
夕食もとらず、冷蔵庫の麦茶を2杯立て続けに飲んで布団へ。
気分が悪く眠ろうにも眠れずゴロゴロ。
カミさんが夜食を用意してくれるも食欲無し。
ゴメンね、カミさん・・・
トイレに行って麦茶飲んで横になっての繰り返し。
それでもどうにか眠りについたようで目が覚めると朝。
少しは気分も良くなり出勤。
今日も仕事がハード。水分補給が追いつかない。
それでもどうにか仕事を片付け帰宅。
昨日と同じくシャワーを浴びたらバタンキュー。
気分が悪く、睡眠薬も効かない。
なかなか寝付けず外が白むころようやく寝ることが出来ました。
今日は仕事お休みでよかった。
短い時間でしたがぐっすりと寝れました。
お昼前に起きると気分スッキリ。
水分補給が足らず、軽い脱水症状だったようです。
午後から散髪に出かけ、止まっていたプラモ製作を再開してました。
眩しいのか前足で・・・
息子が失業手当で買ったヘッドフォンの空き箱にはまるコロン。
アマ〇ンの箱が気に入ったようです。
ちょうどいいサイズなんだね。
わかるよその気持ち、居心地いいよね。
夜、また入ってました。
今日は名古屋でCHAGEとーさんの「遠景ツアー」ですね。
行った方のレポートが楽しみです。
まだまだ残暑が厳しい日が続くようです。
みなさんもこまめな水分補給をしてくださいね。
娘が夏祭りに・・・
夏休み真っ盛りの娘・・・
午後から美容室に行きセミロングの髪をバッサリ。
ベリーショートに。
ん、新垣結衣ちゃんを意識しとる?
浴衣?
あー、今晩は隣町の夏祭りだった。
夕方、カミさんから手伝ってもらい浴衣姿に。
女子3人で行くらしい。
カミさんがいろいろ注意事項を言ってる。
終わったら早く帰って来い、知らない人の車に乗るな・・・
聞いてたらだんだん心配になってきた・・・
兄に小遣いつかませてボディガードとするか。
いや、きっと美味いものにつられて見失うことだろう。
では私が変装していくか。
サングラスかけて口ひげ付けてハンチング帽被ってギターを担いで・・・
ん、なんか誰かに似ているような・・・
まぁ、娘を信じて家で待っていよう。
おっ、花火が始まりました。
去年は別のマンションで角度的に見ることが出来なかったけど、
このマンションはバルコニーからいいアングル。
距離はありましたが部屋の電気を全て消灯して見物。
夜風に吹かれながら久しぶりに花火を堪能しました。
21時丁度に終了。
カミさんと「良かったねぇ。」と話してたら、
娘から「迎えカモン!」のラインが。
待ち合わせ場所に着くまですごい渋滞。通常15分の距離を1時間・・・
後部座席で娘たち3人おしゃべりに夢中。女子会かーっ!
友達2人を家まで送り届けて帰宅したのは23時ちょい前。
夏の風物詩、花火を堪能できました。
夜は鈴虫の音色が聞こえます。
もうすぐ夏も終わりますね。
みなさんはどんな夏を過ごしましたか?
明日は終戦の日・・・
明日は終戦の日ですね。
終戦の日に合わせてあるものを作ってました。
明日の終戦の日は仕事なので前日の今日完成させました。
三菱 零式艦上戦闘機五二型。
通称『ゼロ戦』。
第二次世界大戦(太平洋戦争)に活躍した日本海軍の主力戦闘機ですね。
なぜこれか?
私から見てある意味、日本を象徴するものと思えてしかたないのです。
戦前、軍部からの無謀とも思える要望を
設計技師である堀越二郎氏が形にしました。
長い航続距離、重武装で高速、空戦能力を最優先にしたため、
空気抵抗と徹底した軽量化を図りました。
日中戦争では敵なし、連戦連勝。ここで熟練パイロットが育成されました。
その後、真珠湾攻撃でも活躍。
アメリカ軍のグラマンF4Fワイルドキャット、カーチスP40ウォーホークを
まったく寄せ付けず。
しかし、ミッドウェー海戦での作戦ミスで空母の大半を失い、
多くの機体と熟練パイロットを失います。
アメリカ軍は不時着したゼロ戦を徹底的に研究しました。
そして「単独でゼロと闘ってはならない」、
「編隊を組み一撃離脱せよ」等、戦術が各部隊に通達されました。
南方の戦線でも無敵でした。
イギリス軍のスピットファイアもまったく寄せ付けず。
しかし、ガタルカナル島奪還作戦では片道1,000kmの飛行を余儀なくされます。
約3時間飛んで行き、10分ほど戦闘し、また3時間かけての帰投です。
上空ではいつ敵機が襲ってくるかわかりません。
常に警戒しながら6時間余の飛行。
航続距離が長いゼロ戦だからこそ出来た作戦ですが、
そこにはパイロットの疲労や燃料切れは考慮されていません。
そしてゼロ戦を研究したアメリカ軍はP-38ライトニングや、
ゼロ戦も改修をされていきますが、
資源に乏しく、また補給路も絶たれ苦しい戦いを余儀なくされ、
ここで多くの熟練パイロットを失います。
軽量化のために防御力を犠牲にしたことがここにきて仇となりました。
そしてマリアナ沖海戦。
迎え撃ちましたがここで残りの空母、戦闘機400機を失いました。
これで事実上、機動部隊は全滅。海上での戦闘は不可能となりました。
そして「神風(しんぷう)特別攻撃隊」。
いわゆる「カミカゼ特攻」。
ゼロ戦(主に)に二百五十キロ爆弾を搭載して敵艦に体当たりする。
十死零生の作戦。(作戦と呼べるのだろうか・・・)
あくまで志願者ということでしたが・・・
映画『永遠の0』に描かれてましたね。
現代では自爆テロと同じように言われることもありますが、
決して一緒ではありません。
特攻に行く方の家族に宛てた遺書。
そこには父母への感謝、先に旅立つことへの謝意。
そして澄み渡った心、晴れやかに飛び立ちますという言葉。
喜んで死にに行く=殉教と捉える方もいらっしゃいますが、
震える心を必死に抑えて、
読む家族の心境を慮って悲しませないように綴った文章。
現存する三二型はこの一機のみです。
大刀洗飛行場は特攻に赴くパイロットの中継地としても使用されました。
特攻隊員の遺書も展示されています。
この風防から年若きパイロットたちは何を見ていたのでしょうか・・・
戦後の日本に思いを寄せて、
生まれ変わることが出来れば一生懸命生きたいと願っていたと思います。
今の日本は彼らが夢見た姿でしょうか。
私も自身を振り返り、まだまだ頑張らなければと・・・
先に作っていたアメリカ軍の『P47Dサンダーボルト』と。
後継機の開発の遅れで常に戦場の第一線で運用され続けたゼロ戦。
華々しい初期から後半は悲運に満ちた生涯。
『零式艦上戦闘機』と『戦艦 大和』は儚くも美しい。
意識しなくとも日本人の心にある何かを象徴しているように思えてなりません。
決して戦争を美化するつもりはありません。
もう二度と悲しい運命を背負った『ゼロ戦』を開発してはいけません。
手のひらに乗るサイズの『ゼロ戦』を作りながら、
もう二度と繰り返してはいけない。
深夜にお出迎え・・・
今夜も3時半帰宅。
出迎えたのは眩しそうな眼をしたコロン。
玄関と居間の間に扉があるのですが、
一番下のガラス窓を外しました。
これで、涼しい玄関やお姉ちゃんたちの部屋に行き来できます。
お姉ちゃんの部屋で寝てたんだね。
なんだかんだ言ってもやっぱりかわいい子です。
にゃーってなになに?
あ、水に毛が浮いてるから換えろって?
はいはい・・・
最近の猛暑はこたえますね。
おまけにシフト勤務で体内時計が狂ってる。
帰宅後はすぐには寝付けない。
朝、起きるのが辛い。
出勤までの間、テレビをボーっと眺めてる。
あ、もうこんな時間、仕事行かなきゃ・・・
ってな毎日です。
プラモもちっとも進まねーや。
今作ってるF-1マシンのエンジンです。
いつ完成することやら・・・
孤高の戦士・・・
久しぶりにF-1GP観てます。
思えば観だしたのは80年代後半で、
マクラーレン・ホンダに移籍して一気に頂点へ登りつめる頃でした。
当時はネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセルといった、
一癖も二癖もある役者が揃ってましたね。
ホンダエンジンも素晴らしかった。
中嶋悟も良く頑張ってました。
観なくなったのは1996年ごろからかな?
アイルトン・セナについて。
特別に応援していたわけではありませんでした。
どちらかというとやんちゃな走りをするマンセルの方が好きでした。
1988年にはマクラーレン・ホンダが16戦中15勝という快挙。
セナが自身初のチャンピオンになった年でしたね。
1989年にはセナとプロストの対立が激化。
レースだけでなくチーム内でも険悪なムードに。
日本GPのシケインで両者接触。
セナはこの後、レースに復帰してトップでチェッカーを受けるも
レース後の裁定でシケインカットを理由に失格となりタイトルを逃します。
ポイントでリードしていたプロストがチャンピオンとなりフェラーリへ移籍。
遺恨を残したまま1990年を迎える。
そしてこの年も2人のチャンピオン争いに。
ポール・ポジションのセナがスタートで出遅れ、
予選2位のプロストがリードして入った第一コーナーで二人は接触。
両者ともリタイア。
今度はポイントでリードしていたセナが2度目のチャンピオンを獲得。
2年連続でスッキリしない結末を迎えたのでした。
1991年はフェラーリがマシン開発の遅れで低迷。
セミ・オートマチック・トランスミッションなどの技術革新で
ウィリアムズ・ルノーが躍進。
フェラーリからウィリアムズへ移籍したマンセルと、
マクラーレン・ホンダのセナのチャンピオン争いに。
最終的にはマシンの信頼性の差でセナが3度目のチャンピオン。
最終戦を待たずにチームを解雇され、その後1年間の休養に。
1992年はアクティブ・サスペンションを搭載して
マシンの信頼性もアップしたウィリアムズ・ルノーが大活躍。
技術で出遅れたマクラーレンはホンダエンジン頼りで苦戦。
ウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルが9勝をマークし
初のチャンピオンを獲得。「無冠の帝王」を返上したのでした。
この年を最後にホンダが撤退。
撤退発表の後のインタビューで見せたセナの涙が今も心に残ってます。
マンセルは契約金のこじれ(?)でチャンピオンのままチームを去ります。
1993年はホンダエンジンを失ったマクラーレンが競争力を失う。
1年の休養後、政治力を利用しウィリアムズ入りしたプロスト。
前年のチャンピオンマシンに更に改良を加えたウィリアムズの前に
セナの腕をもってしても太刀打ちできず、プロストがチャンピオンに。
そしてプロストの引退。
1994年、競争力のあるマシンが欲しいセナは念願のウィリアムズ入り。
しかし、ウィリアムズ一強に危機感を持ったFIAが規制に乗り出す。
ハイテク技術が禁止となり、極限まで追求された空力デザインとの
バランスが崩れます。
アドバンテージが無くなった上に挙動が安定しないマシン。
セナは第1戦、第2戦とポールを獲得するも連続でリタイア。
そして第3戦、サンマリノGP。
予選でローランド・ラッツェンバーガーが事故死。
F-1GP開催中の死亡事故は12年ぶりとのこと。
この年のサンマリノGPは予選、決勝と事故が相次ぎ、
負傷者多数、死亡2名を出し呪われた週末と呼ばれています。
運命の5/1、決勝。
ポール・ポジションからスタートしたセナはトップを走行。
しかし、後方での事故でセーフティ・カーが先導することに。
後に映像で分かったのですが、
セーフティ・カーの速度が遅くセナが「もっと速く!」とジェスチャー。
タイヤの温度が下がることでグリップ力が低下することを懸念したのではと
言われています。
セーフティ・カーがいなくなり、レース再開。
7周目の高速コーナー「タンブレロ」でセナのマシンは突如右にコースを外れる。
そしてコンクリートウォールに激突。
レースは中断し、セナは救命処置を受けヘリで病院へ。
しかし、そのまま帰らぬ人に。
34歳でした。
直接の死因は折れたステアリングシャフトがヘルメットの隙間から突き刺さり、
脳にダメージを受けたためと言われています。
事故の原因は諸説あります。
その中には自殺説も。
多分、レース前に憔悴しきった表情をみせる写真があるのでそこからでしょう。
前日のラッツェンバーガーの死亡事故にショックを受けてたようです。
しかし、私はそうは思いません。
彼はいつも限界ギリギリを攻めていました。
モナコ・マイスター。
そのモナコで6勝。
ガードレールギリギリを疾走するセナは後に、神を感じたと述懐しています。
彼は敬虔なクリスチャンでもあります。
後に公開されたセナのマシンのオンボード・カメラの映像では、
必死に最後までマシンを制御しようとする姿が映ってます。
決して最後まで諦めていなかったはずです。
この写真もサンマリノGPレース前の姿と言われています。
私には静かに闘志を秘めた瞳に見えます。
この写真は私のパソコンのデスクトップにあります。
「お前は自分で限界つくってないか?」
と私を鼓舞してくれます。
それと同時に何かを語りかけているような気がするのです。
それが何か気付くのか・・・それは、私次第。
今日もセナと対峙しています。
私も心は孤高の戦士であろうと思います。