わすれな草

書かなければ・・・

平成が終わる前に何としても書かないといけない。

 

 

TV番組『直撃!シンソウ坂上 尾崎豊SP』が

尾崎の命日に合わせて放映されました。

以前このブログでも書きましたが、

私は10代後半から20代半ばまで彼のファンでした。

家出をして東京の片隅で文字通り這いつくばって生きている中で

同じ歳の彼の歌だけが希望の光でした。

なけなしのバイト代で買ったウォークマン

カセットを何度も何度もリピートして。

楽しかったことも辛かったことも全て彼の曲と共にある。

 

 

 

1992年4月25日、職場に置いてあるテレビに速報が。

尾崎豊さん死去」

呆然と見つめたことを憶えているがその後の記憶はない。

 

なぜ?何が起こったんだ?死ぬはずがないだろ・・・

受け入れない、受け入れられるはずがない。

悲しみよりも怒りの方が強かった。

死因は肺水腫。

その後にいろんな推測が報道された。

ニュースに週刊誌。

覚醒剤の大量摂取、他殺、自殺、奥さんの陰謀説まで。

そのどれひとつも俺を納得させるものはなかった。

怒りは静まるどころか増幅していった。

メッセージ性の強い彼の歌詞が白々しく感じて来た時、

聴くのをやめた。

その後仕事にのめり込むことで心の穴を埋めていった。

チャゲアスハウンド・ドッグなど

お気に入りのミュージシャンはいたが、

ファンになることはなかった。

 

何度目かの引っ越しで彼のCDを手放した。

過去との決別だと信じた。

 

 

 

2017年のある日。

深夜に帰宅し疲労困憊の中、TVの有線放送を点けると

1991年の横浜アリーナでのライブの模様が。

1985年11月の代々木オリンピックプールでのライブに

行ったことを思いだした。

歌詞がスラスラと出てくる。

20年以上聴いてないのに。

怒りは湧かなかった。歳を取ったせいか。

 

平成を終える間際に前出のTV番組が。

そうか、そうだったな彼の命日だった。

録画した。

なぜか。

家族のいる前では見たくなかった。

録画を深夜一人で見た。

彼のプロデューサーだった須藤晃さんの言葉が

若い頃の記憶を呼び戻す。

 

 

彼が「尾崎豊」であるために闘い続けてきたこと。

自らが成長することと求められることのギャップ。

もがき苦しみ、のたうち回る日常。

アルコールとドラッグで身を削る日々。

 

俺達が彼を追い詰め殺したんだ。

 

彼の曲と共に葬り去った己の過去。

家出、退学、失恋、裏切り、挫折・・・

いろんなことが甦ってくる。

彼の曲で己の醜さを覆っていたのではないか?

彼の曲に己の歪んだ心のはけ口を求めていたのではないか?

 

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いつだったか購入するも開くのが怖くてタンスの奥にしまっていた本。

自分を振り返るのが怖かったのかもしれない。

自分の過去を受け入れたくない自分がいたのか・・・

 

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尾崎豊10代の3枚のアルバム。

このカセットだけは捨てられずにいた。

10代最後のアルバムがなぜ10曲でなく9曲なのか。

その理由も今なら分かった気がするよ。

 

 

平成の幕開けは尾崎豊一辺倒だった。

平成7年の1992年、彼の死をきっかけに

聴かなかった、聴けなかった24年。

そしてこうして平成最期の日に彼の曲を聴き、

彼とは尾崎豊とは何者だったのかと考える。

ひとつだけ確かなのは彼も俺たちと同じ若者だったということ。

彼の曲を聴きながら涙が止めどもなく溢れてくる。

 

今なら言える、今だから言える。

「ごめんなオザキ、そしてありがとう。

もう忘れないよ。安らかに。」

 


forget-me-not - Yutaka Ozaki (English lyrics) 尾崎豊