GOOD TIME

息子の離職、娘の不登校

入院している親父の症状の悪化。

色々とあるが仕事に打ち込むことで何とか心の張りを保っていた。

深夜に帰宅するも眠れず、睡眠薬も効果ない。

朝は出勤時間ギリギリまでベッドから起きれず。

疲労が蓄積されていくのが自分でもわかる。

好きな音楽を聴いて自分を奮い立たせる。

そんな毎日を何とか凌いでいた。

 

本人も不登校の原因がわからない笑顔の消えた娘。

そんな娘を焦らず、焦らせず見守っていこうと決めていた。

 

しかし、その日は音楽を聴いても何も感じなくなっていた。

どうしようもない憤り、制御できなくなった感情。

笑顔の無い娘に「どうしたいんだ?」と。

表情が曇る娘。

凍り付いた表情の妻。

自室に閉じ籠った娘を追いかけて話す妻。

戻ってきた妻が「もう少し言い方に気を付けて」と。

「どういえば心に響くんだ?」と言い返す。

その後口論となるも私の性格を知る妻が引き下がる。

 

砂を噛むような苦い思いが胸に込み上げて仕方がない。

その夜はほとんど眠れず出勤。

弱り目に祟り目とはこういうことか。

出勤早々トラブル続きで休む間もなく一日が終わっていく。

気が付けば深夜、妻も娘も寝静まっている。

シャワーを浴びてベッドに倒れ込むも今夜も眠れない。

次の日も次の日もやるせない思いだけが募る。

 

 

いつものように深夜に帰宅、明日は休みだ。

疲れているにも関わらず今夜も眠れそうにない。

そんな目に飛び込んできたのは

今年3月に手に入れるもまだ観ていないDVD、

ASKAのコンサートツアー『GOOD TIME』。

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テレビを点けてDVDをセット。

家族は寝ているのでヘッドフォンをする。

最初ワクワクするも始まると麻痺したように何も感じない。

しかし大好きな曲「月が近づけば少しはましだろう」が

流れ出した途端、押し殺していた感情が噴き出す。

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魂が震えるとはまさにこういうことなんだ。

ASKAの歌声に集中する。

曲が進むにつれ、いろんな気持ち、感情が開放されていく。

ラストの「けれど空は青~close friend~」では、

涙が止めどなく流れ落ちる。

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そうだ、この感覚。

「感動する」

この感動するということがなくなっていた。

 

いろんなことから必死に感情を制御しようとしていた。

しかし無理に押さえつけた結果、制御不能に陥っていた。

 

感情を制御することは大事である。

しかし同時に開放することも大事であるということ。

分かってたつもりでも自然と自分を追い込んでいた。

 

気付かせてくれたのはASKAの歌声。

魂の籠った歌声が私を救ってくれた。

 

これからにとって、

この夜は間違いなく『GOOD TIME』だ。

燃えよ剣

カミさんの誕生日が近く、母の日も近いということで書かずにいましたが、

5月11日は新撰組副長、土方歳三の命日でした。

4月25日は新撰組局長、近藤勇の命日。

5月30日は新撰組一番隊組長、沖田総司の命日。

3人とも春に命を落としているのですね。

 

近藤勇土方歳三武蔵国多摩郡の農家の生まれです。

沖田総司陸奥国白河藩藩士の次男として生をうけています。

江戸時代は士農工商などの身分制度により、

嫡男以外は「部屋住み」の冷や飯食い。

そんな彼らは試衛館という道場で剣を学びます。

時は幕末。

尊王攘夷、倒幕運動が京都を中心に渦巻きます。

京都の治安維持にあたる京都所司代町奉行だけでは

防ぎきれないとみた幕府は、幕臣からなる「京都見廻組」と、

浪士(町民、農民含む)で結成された「浪士組」を京都に送り込みます。

京都見廻組」が正規組織であるのに対し、

「浪士組」は非正規組織という身分でした。

 

江戸で募集された「浪士組」に試衛館の3人も含まれていました。

京都に到着早々思想の違いから分裂し、「壬生浪士組」を結成。

京都守護職松平容保から京都市中の警備を任せられます。

文久の政変で警護にあたった「壬生浪士組」は

その働きを評価され隊名を「新撰組」と拝命されます。

警備をしながらも内紛が相次ぎ、

暗殺、切腹、逃亡などが繰り返され試衛館派が組を掌握し、

近藤勇を頂点とした組織が整備されました。

長州藩土佐藩尊王攘夷派の志士が京都の旅館「池田屋」で

新撰組に襲撃をうけた「池田屋事件」は有名ですね。

9名を討ち取り、4名を捕縛。

その後も京都市内で攘夷派の志士の討ち取り、捕縛は続きます。

一方、新撰組内でも思想の違いから脱退した元隊員を暗殺したり、

逃亡を企てた者に切腹させたりとその歴史は血塗られたものです。

近藤勇の下、鬼の副長として土方歳三が隊を引き締めます。

新撰組は幕府から幕臣として取り立てられます。

 

そんな中、薩長同盟が締結。

締結に尽力、内戦を回避しようと奔走する坂本龍馬は暗殺され、

武力による倒幕を主張する薩長が京都に押し込みます。

時の第15代将軍、徳川慶喜は時勢を読み、大政奉還を決行。

これで江戸幕府は終焉を迎えます。

しかし、それを潔しとしない旧幕府軍は新政府軍と激突。

鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争が始まりました。

新撰組旧幕府軍と共に戦うも敗退を余儀なくされます。

沖田総司結核のため戦闘には参加できず、江戸に後送されます。

新撰組の隊員もちりじりになりながら旧幕府軍と共に戦い、

敗走を続けます。

そんな中、近藤勇が新政府軍に捕まり処刑されます。

一説によると「武士」として切腹を願い出るも、

「武士」ではないとして斬首、その首は京都に晒されました。

近藤勇、享年34歳。

その近藤の死を知らぬまま、沖田総司結核のためこの世を去ります。

沖田総司の出生は定かでなく、享年24歳とも27歳とも説があります。

鬼の副長、土方歳三旧幕府軍と共に会津、仙台で戦い、

その後旧幕府軍の軍艦に乗って蝦夷地(北海道)へ向かいます。

五稜郭を占拠し、ここで新政府軍と激しい戦いが繰り広げられます。

そして運命の1869年5月11日。

新政府軍に包囲され孤立した友軍を助けに行くため、

わずかな兵を率いて馬上で指揮を執る土方歳三

その歳三の腹に一発の銃弾が命中して落馬。

歳三はその生涯を閉じたのでした。

土方歳三、享年35歳。

 

生涯人を殺さず、人を活かそうとした坂本龍馬

その対極と言える、人を斬りまくった新撰組

暗殺集団とも言われていますね。

しかし、その一人一人を見ると実に興味深い。

身分制度に抗い、幕末という荒波に翻弄され、

己の信ずるものへ執着するあまり時勢を見ることが出来ずに、

幕臣に取り立ててくれた幕府に、幕府亡き後も最後まで忠誠を貫き、

そして最後は武士より武士であろうとした青年達。

 

今の日本は、大志を抱き時代に翻弄され、

血と涙を流した多くの若者の命を土台にしている。

人を殺めることはもちろんいけないが、

生き方、生き様から学ぶことは沢山あると思う。

 

偉人と言われる人も、

名が残らぬ圧倒的多数の人も一生懸命生きてきた。

そして現代の我々も一生懸命生きることが大切である。

 

命燃えよ、燃えよ剣

 

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近藤勇国立国会図書館蔵)

 

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土方歳三国立国会図書館蔵)

男の引き際・・・

先日のボクシング、亀田興毅氏の試合について。

私の率直な気持ち、意見を書かせてもらいます。

読んでて不快に思われた方はすぐに閉じて下さい(笑)

 

1日限りの現役復帰。

ASKAのブログでも度々取り上げていたので、

日頃ボクシングを観ない沢山の方も注目していたと思います。

対戦相手は8年前にプロ初黒星を食らって

いろんな意味で亀田家の運命を狂わせたポンサクレック

 

ポンサクレックの年齢が40歳ということで出場資格が認められず、

公式戦でなくスパーリング形式での対戦。

ASKAが太鼓判を押す様に序盤から亀田興毅氏の動きがいい。

身体のキレがいいのはすぐにわかります。

対するポンサクレックにはキレがない、覇気がない。

2回に亀田興毅氏の左ストレートが入りTKO。

ポンサクレックも相手を褒め称えセレモニー終了かと。

ここでよもやの引退撤回宣言。

 

「まだやれる!」

そう自身も思ったのでしょう。

ローマン・ゴンザレスに挑戦するのも一つの生き方。

それを周りがどうこう言う事ではない。

ブランクがあるにもかかわらずあそこまで体を仕上げてきた事は、

並大抵の努力、忍耐では出来ないこと。

ボクシングにかける思いがそうさせたのでしょう。

 

と、ここで私の持論を。

先ず今回の対戦、亀田興毅氏にとっては大変意義のある対戦。

一方、ポンサクレックにとってはどんな意味があるのでしょうか。

本国タイで現役復帰をしているとはいえ40歳。

しかもタイトルがかかっていない試合。

ポンサクレックには闘う大義がないのです。

うがった見方をすればセレモニーに出演して怪我をする前にダウンし、

引き立て役となりお金を受け取り帰国。

 

セレモニーとして見れば男の花道を飾ったと。

しかし、プロボクサー同士のプロのボクシングとして見れば茶番。

皆さんはどう見、感じたのでしょうか?

 

ASKAがブログで必ず勝ちますと言ってましたが、

もう約束されていたことと思って観ていました。

「逆インタビュー」で出会い意気投合して、

亀田興毅氏を「言葉も丁寧で礼儀を知った男」と。

30過ぎの男なのでそれが当たり前ですよね。

出来てない男もいますが(笑)出来ているのが普通。

そもそも幼少の頃から父親がトレーナーとして厳しく指導、

父親の言うことを聞くいい子です。

基本はもちろん体に叩き込まれています。

ASKAが技術的なことを誉めていましたが、当然なことです。

 

私にはマスメディアに翻弄された境遇にASKAが自分を重ね、

手を差し伸べたように感じているのですが。

 

別に亀田興毅氏が嫌いなわけではないですよ。

今まで辰吉や竹原、畑山を応援して来ました。

彼らには漢としての魅力がありました。

私にはそれが亀田興毅氏には感じられない。

だからマスメディアの報道、バッシングを差し引いても

好きでも嫌いでもない存在。

ASKAがそう言うから応援しようという方もいるでしょう。

私は私の価値観で生きてるのでASKAASKA

 

亀田興毅氏は父親の影響下から外れた今、

ホントの意味で真価を問われる時期が来ているのだと思います。

思いが残ってるなら外野が何を言おうとやり通せばいい。

往生際が悪かろうともそれが己の道なら。

己を飾らず、本当の意味で漢として闘いに臨むとき、

きっと私も応援しているでしょう。

~Forever Ayrton Senna~

24年前の1994年5月1日、一人の天才が天に召されました。

F1ドライバーでブラジルの英雄、アイルトン・セナ

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親交のあった松任谷由実さんがセナに捧げた『Good-bye friend』。

一部を変更して『Hello My Friend』がアルバムに収められました。

 


Hello, my friend~Forever Ayrton Senna~

 

貴方の最後まで諦めない姿は私に勇気と感動を与えてくれました。

貴方は今でも私の中で生き続けてます。

 

勇気と感動をありがとう!

いつまでも忘れない、私の永遠のHERO!

 

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初孫の記憶。

父の見舞いに家族4人で行って来ました。

5日前に妻と二人で見舞いに行っていたのですが、

その時は原因不明の熱でうなされてました。

もしかすると孫の顔を認識出来るのは最期かもと。

原因不明の熱はその後の検査で肺炎になりかけていたと判明。

入院時にはなかった膵臓の膵管にも異常が。

後手後手の病院の対応に不信感を持ちつつも、

ここに頼らざるを得ない状況なのです。

 

五日前よりは少しは楽なようで、呼びかけに笑顔も。

孫の顔を見て顔をほころばせていました。

良かった!

顔も名前もわかるようです。

ただ明日、今日のことを憶えているかはわかりません。

 

 

長男は中学に入った頃から、私の実家に行きたがりませんでした。

思春期で親について行くこと自体少なくなりましたし、

私の仕事の都合上、盆も正月もなかなか休みがとれなかった。

父は以前書いたように一時期教師でしたので、

話が説教くさくてカタい。

思春期の長男にはそれが疎ましい。

私も思春期にそう感じていたので痛いほどわかります。

しかし、今は父の思いもわかります。

 

 

私の長男は父と母にとって初孫でした。

60代前半だった父は母を車に乗せて毎週のように孫の顔を見に来ました。

片道60kmの道のりを2時間かけて。

カメラが好きだった父は沢山の写真を撮ってました。

 

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特別養護老人ホームの園長を務め、

老い認知症の方々と向き合いながら人生の終焉に立ち会う中、

初孫の顔を見るのが生きがいだったのかもしれません。

 

実家の本棚の上に色褪せた家族全員集合の写真が数枚飾られていました。

 

もっと早く孫たちを連れて行けばよかった・・・

 

悔やんでも悔やんでも悔やみきれません・・・

 

気付けなかった自分に腹が立って仕方がない!

 

 

遺書も読んできました。

妻に対する感謝、好きなように生きさせてくれたことへの感謝。

子供たちへの感謝、子育てをさせてくれたことに感謝。

涙が溢れました。

 

 

気付くのが遅かった・・・

もっと早く親の老いに目を向けるべきだった。

今更ですが、これから何が出来るか考えていかねばならない。

しかも待ったなしで。 

残された時間、記憶があるうちに楽しい思いをさせたい。

 

長崎旅行記、番外編

これから話すことは決して嘘ではありません。

しかし、ホントとも言えない・・・

まさに夢として読んで頂けると幸いです。

 

ホテルで就寝中のことです。

夢の中で私は両腕を抱えられ引き立てられました。

「今からお前を処刑する。」

「えっ?なんで私が?」

「問答無用!」

「なぜ?なぜ?」

・・・

はっと目が覚めました。

周りは真っ暗ですが間違いなくホテルの一室。

「なんだ夢か。怖い夢を見たな。」

そう思いながらも歩き回った疲れからかすぐに深い眠りに。

 

翌朝目覚めてあの夢のことを思い出しました。

といってもどんなシチュエーションだったか思い出せません。

朝食の時間となり、夢のことは頭の片隅に追いやられました。

 

朝食が終わり、出立の用意を済ませ、

今日周るルートの再確認のため観光マップを見ていると・・・

一瞬戦慄が走りました。

 

このホテルのある丘を下ったところの地名が西坂。

 

豊臣政権の禁教令のため1597年に

外国人宣教師6名と日本人のキリシタン20名、

計26名が処刑された地だったのです。

丘のすぐ下に『日本二十六聖人殉教碑』があります。

 

思い出しました。

40年ぐらい前に小学校の修学旅行で訪れ、

説明を聞き深く印象に残っていました。

処刑された日本人の中には12~14才の子供3名も含まれてます。

同じ年頃の子がここで磔の刑で・・・

当時の私は大変なショックを受けたことを憶えてます。

きっとその心の奥深くに刻みこまれた記憶が

あのような形で蘇ったのでしょう。

観光マップで無意識に見て脳裏で反応したのだと思います。

 

変に捉えられるとせっかくの旅行が台無しになるので、

カミさんと子供たちには黙っておきます。

 

 

大浦天主堂

1865年に建造されたキリスト教会。

西坂を向いています。

 

1597年の処刑はヨーロッパに伝えられ、

ローマ教皇が26名の殉教者を「日本二十六聖人」と称しました。

幕末に開国されるとキリスト教の神父たちが土地を入手し、

二十六名の殉教者に捧げるために教会を建築しました。

それが大浦天主堂なのです。

 

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家族がグラバー園に向かって重い足を引きずる後ろで

そっと手を合わせてきました。

 

 

いろんな顔を持つ長崎。

鎖国の中、出島を通して西洋の物や文化が長崎に集まりました。

時に武器が取引され明治維新にも大きく影響を与えた街、長崎。

その反面で、

1945年8月9日に広島に次いで原爆が投下されました。

私の長崎出身の同僚は被爆二世です。

明るい歴史と暗い歴史を併せ持つ街。

日本は今一度、歴史を見直すべき時なのかもしれません。

 

もう一度、じっくり周りたい街ですね。

 

次は路面電車で(笑)

長崎旅行記、完結?

父の手術の日に同僚の父親が亡くなりました。

末期癌で、手の施しようがない状態だったとのこと。

老い、病、怪我・・・いろいろと考えさせられる春となりました。

そうですね、目を背けては生きていけない。

出来れば考えたくはないが必ず訪れる。

それはいつ訪れるかわからない。

だからこそ一瞬一瞬を大切に生きなきゃならない。

同僚も今日から職場に復帰。

心の整理がついたのか、一時でも忘れようとしてるのか。

張り切って頑張ってます。

静かに見守っていきたいと思います。

 

・・・で、

 

連載中(?)だった長崎旅行の続きを・・・

 

中華街で食事をとったとこまででしたね。

食事の後、散策しながらグラバー園を目指します。

途中にオランダ坂があるのですが、

上り坂なのを見てカミさんが一言「スルー!」

坂の上にある活水女子大学の学生さんが昇ってるので

後をついて行きたかったのですが・・・可愛かったのに・・・

気温も上がり、冷たいものでもと喫茶店へ。

カフェインレスのアイスコーヒーで至福のひと時を。

休憩後、また歩きです。

歩きに歩いてようやく到着。

着いたはいいがまた坂・・・

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お土産屋さんを横目に昇っていくと、

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正面に大浦天主堂

大浦天主堂とは幕末の1865年に建造された、

現存する日本最古のキリスト教建築物です。

この教会については後ほど・・・

 

この大浦天主堂に隣接してグラバー園があります。

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また坂です。

これを昇りきったところに入園口があるのですが、

庭園内の案内図を見てカミさんが「ギブッ!」

グラバー園とは幕末から明治期にかけて長崎に在住したイギリス商人の

グラバー、リンガー、オルトの旧邸の周りに

市内にあった洋館を移築復元したものです。

トーマス・グラバー

イギリスの商人で長崎の造船業の礎を築いたとも言われています。

国産ビールの育ての親とも。

武器商人として亀山社中とも取引しています。

坂本龍馬もこのグラバー邸を訪れ交渉しています。

幕末の動乱期に討幕派に最新式の武器弾薬を与え、

維新の陰の立役者となりました。

薩長同盟にも深く関与しています。

明治日本の近代化にも大きく貢献しています。

 

広い綺麗な庭園の中に洋館が点在していて

私としてはゆっくり見て回りたかったのですが、

「もういや、歩きたくない!ここから動かん!」げな。

しばらくここで休憩。

私は長崎港を見渡せるところに行き、

珍しいものを発見!

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海上自衛隊イージス艦です。

通常は佐世保港にあるらしいのですが、この日は長崎港にありました。

番号から護衛艦「こんごう」のようですね。

もう一隻は番号がはっきりとはわかりません。

 

一息ついたところで、

土産屋でカステラと職場へのお土産を買って帰路につきます。

坂の下に路面電車があり、それに乗って車を停めてある長崎市民会館へ。

実は路面電車で観光各所を巡っていけるのです。

しかも1日乗車券を使えばお得に。

カミさんは「最初っから乗ればよかったーっ!」と叫んでますが、

それでは意味が無いのです。

今回の旅の副題は『龍馬の歩いた道を歩く』ですから・・・

 

一人ブラブラしてた長男と合流、愛車で長崎を後にしました。

 

 

大浦天主堂についてはまた後ほど・・・